■ 2011-03-06、-09
■ 単なる旅の記録であれば、・・・
■ 「草の戸」の句として、杉風の句をあげてもよかったかもしれない。
■ しかし、杉風と芭蕉の句と比較してみれば分かる。
■ 杉風の句は単に別れの句であり、芭蕉の句はいわば人生の選択肢を意味している。
■ 雛まつりに象徴される和やかな家庭団欒といった、庶民の幸せではなく、風雅の道を目指している。
■ 「住替る代」は、逆に、芭蕉が今まで歩いてきた変ることのない自分の道を強調しているかに見える。
■ 序章の、「月日は百代の過客にして・・・」といった出だしの大げさな表現と、雛まつりはいかにも釣合がとれない感じがする。
■ なぜ芭蕉はこの句をここに置いたのか、ずっと不可解だった。
■ もともと、「月日・・・」の方は人の思想からの借り物だから、たいして重要ではない。
■ その人間の大きさの面で李白と芭蕉を比べてみたところで、奥の細道の理解が深まるものではない。
■ だから、むしろ、ない方が等身大の芭蕉の姿が見え、分かり易い。
■ しかし、、過去において、人は流用表現であっても芭蕉の文章として評価してきたわけだし、・・・
■ それが、多くの人に奥の細道を読ませることになったのだから、効果的だったということだ。
■ 読者の心を掴んだという意味では、芭蕉はうまい。
■ しかし、その「うまさ」に酔わずに醒めて、口当たりの良い出だしの文章を意味的に読めば、疑問もわいてくるだろう。
■ 李白の文章や詩を読んだとき、李白と芭蕉の違いや、果たして李白は、芭蕉が引用したような意味合いで書いたのかなどと、考えてみるとよい。
■ 「月日は・・・」の部分はさらっと読みとばせばよい。
■ 芭蕉にとって重要なのは、「月日は・・・」の部分ではなくて、「草の戸」の句だった。
■ 「草の戸」の句は最初、単に家を処分した際の気持をそのまま詠んだ句だった。
■ 杉風は芭蕉の「草の戸」の句を頭に置いて、「我草の戸」の句を作った。
■ そして、杉風の「草の戸」の句を見て、芭蕉は自分の「草の戸」の句を思い描いた。
■ そして、奥の細道を執筆の時、これは使えると思ったに違いない。
■ こうした時間の経過がある。
■ 何ということもない句にみえるが、奥の細道のここに配置することにより、
■ 杉風への感謝の気持ちを込めたメッセージと、芭蕉の意志の表明のふたつの意味を表す句として存在することになった。
■ 「草の戸」と表現した場所は、いわば質素な生活だったけれど、落ち着いた生活ではある。
■ その安定した生活を捨て去り旅立つ。
■ 「雛の家」といったささやかな世界をとりあげたことで、芭蕉の
旅への気持が反映されたことが分かるような構成になっている。
■ だから、こう考えると、奥の細道の出だしはもっと別の書きようがあったかもしれないと思う。
■ わざわざ李白の言葉を引用することなく、自分の言葉で語っても良かったのではないか。
■ しかし、それは、今さら言ったところでしょうがないことだ。
■ ともかく、この序章で、芭蕉は奥の細道と、人生のひとつの旅立ちの心を表している。
■ 芭蕉の奥の細道の旅は元禄二年のことで、素龍が清書したのが元禄七年のことだった。
■ 出来上がった「奥の細道」を読むから誤解もするかもしれない。
■ 「奥の細道」という題名も旅の前からあったわけではない。
■ 素良日記が発見されて、学者は、それと対比して、事実と違うなどというのはあきれた話で、
■ 芭蕉でなくても、自分が5年も前のことを題材に文章を書くことを考えてみればよいのだ。
■ 何年も前のことだから、芭蕉は客観的に当時のことをみることだできただろう。
■ 芭蕉は単に旅の紀行文として書いたのではない。
■ 旅は単なる素材だ。
■ 旅で出会った感動の数々を思い出しながら、その句を散らし構成を考え、作品とした。
■ 芭蕉の得意とする連歌のように幾つかの発句をまとめあげて、芭蕉の世界をつくりあげたのだった。
■ 何人かの人と作り上げる俳諧という作品ではなく、独りで作る、従来の俳諧とは別の世界だった。