野鳥と俳句

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書いている通りに

 

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■ 2011-03-08

■ 杉風に招待された人たちがどこに住んでいたか知らないが、わざわざ前日から来ている。

■ 俳諧仲間が、「宵よりつどひて」、ただ飲み食い雑談をしたわけでもあるまい。

■ 俳諧師の芭蕉送別の会だ、当然芭蕉を囲んで俳諧、すなわち連句がなされたのはずで、・・・

■ その結果としての「面八句」が作られたのを否定するのはどういう感覚なのか。

■ 奥の細道のための創作であろうはずはない。

■ まず、芭蕉が書いていることを、書いている通りに、読んでみたらどうなんだ。

面八句を書きて庵の柱に懸置

■ 最初はこのように書いている。

■ 杉風の「草の戸」の句が「面八句」の発句であるとの証拠は今のところない。

■ しかし、すくなくとも、「・・・我草の戸や旅はじめ」という句の旅は、杉風の旅ではなく芭蕉の旅だから、・・・

■ ・・・芭蕉に見せるために、あるいは芭蕉に贈るために作った句であるには違いない。

■ 「面八句」が現存しないならしないでも構わない。別に問題は起こらない。

■ 奥の細道にはただ「面八句」を懸けたと書かれているだけで、句自体が書かれている訳ではない。

■ 句を書く必要があったなら芭蕉は書いたはずだ。

■ 「草の戸」の句が「面八句」の句でないとしたら、「面八句」を探す必要もない。

■ それでも、捜したければ、杉風の「草の戸」の句を発句とする八句を捜さなければならない。

■ だいたい、捜すものを間違って捜せるわけがない。

■ 実質的に捜してないのだから、「現存せず」、という結果は当たり前のことだ。

■ 捜したければ捜せばいいのだが、・・・

■ 取り上げず、いわば芭蕉が捨てたのだから、捜す必要がどこにあろうか。

■ 書かれてない捨てた句について色々憶測してもしょうがない。

■ 今は、書かれている句について考えることだ。

■ そして、芭蕉の「草の戸」の意味を正しく知り正しく理解することだ。

■ 問題は、「面八句」ではなく、「草の戸」の句であり、奥の細道における意味合いだ。

■ それは先に記した。

■ そして、もちろんのこと、面八句が見つかったら、以上のことがはっきり証拠だてられることではある。

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