野鳥と俳句

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習いになった

 

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■ 2011-03-17

■ 人が芭蕉をあざといと評したとしても、芭蕉がずる賢く、打算的な人間には見えない。

■ ただ、人の心が分かりすぎたのだ。

■ それが習いになったにすぎない。

■ 人は一人では生きてきたわけでも、一人でいきているわけでもない。

■ 日々を過ごしている間に、その生い立ち、環境、境遇、時代背景、などに作用され、また作用して価値観を持ちながら、一個の人となってゆくのだ。

■ 遺伝もあろう、体質もあろう、性差もあろう、向き不向きといった資質もあろう、・・・

■ 結果として、ある面で、能力を伸ばせるものもいれば、伸ばしきれないものもいる。

■ ただ、そういうことだ。

■ 連句は人の句に後付け先付してひとつのモノを作り上げてゆく。

■ その時々の言葉となった人の心をよく理解し、それに応える遊びだ。

■ 芭蕉は連句の座を捌くのが得意だった。

■ よく人の心が分かったということで、だから俳諧師として生きて行けたということだ。

■ 俳諧師の道を選んだ。そして、それしかなかった。

■ しかし、それを生業にはしたくなかったので、どうしても、「あざとさ」と評される面もでることになったのだろう。

■ いわば、芸術至上主義的な生き方だったといえる。

 

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