■ 2011-03-17
■ 人はこころを言葉にのせて話し書く。言葉から心をうまく捉えることができれば理解であり、できなければ誤解ということになる。
■ 一応、誤解するのは受け取る側が悪いが、逆も言える。
■ 分かるように書かないからだ、と。
■ 会話の場合は聞き直すこともできるが、書かれたものの場合は、そうはいかない。
■ 元禄時代の松尾芭蕉が、平成時代の現在において読まれることを意識して書いたわけではないだろう。
■ もちろん、書くという行為は、後の世の人も含めて、人が読むことを前提にしてなされる。
■ 意識したとしても、言葉自体が時代とともにどのように変化してゆくかまでは予測できな
いし、普通そこまでは考えない。
■ 明治時代や大正のものでさえ読みにくく感じ、すぐ意味の分からないものもある。
■ まして江戸時代の文章だ。
■ 話す場合は、文章と比較して、筋が前後しやすい。
■ 話すことと同じように書かれた場合、一貫性がなくなることもある。
■ 誤解もおこる。
■ 誤解されないように書かないといったところでしょうがない。
■ やはり読む側の問題だ。
■ 本が逃げるわけではないのだから、繰り返し読むということか。
■ 時の流れにしたがって並べ替えて読むことも必要だ。
■ 話し言葉は聞くのだから、音読、即ち、聞くという方法もある。
■ 書く方が読む方より人のこころを掴むのがうまいわけでもない。
■ 書く方は自分が分かっていることを書くわけだから、省略もあるかもしれない。
■ 当然、分かるはずだということで書けば分からないところも出てくる。
■ というか、そういう意識もなく、ごく普通の書き方をしたと考えるのが自然だ。
■ 芭蕉たちの連句を読んでも分からないことの方が多い。
■ 彼らは、同時代のしかも俳諧をする人間が読むように作られている。
■ いわば、即席の巧さを競うということだから、当然そうなる。
■ 奥の細道は連句ではないから違うけれども、現代人の感覚で読めば分かりにくいところもたくさんある。
■ だから、注釈ということになる。
■ 学者の出番だ。
■ しかし、学者だから人のこころが、他の人より分かるわけではない。
■ まず、文字として言葉として読むからだ。
■ 分かる人もいれば分からない者もいる。