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ひがしの野と霊の話

 

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■ 2010-03-27

@ ひがしの野に かぎろひの立つみえて かえりみすれば 月かたぶきぬ   柿本人麻呂

■ この歌は、・・・

A 東野炎立所見私而反見為者月西渡

■ ・・・と、書かれていた。まるで、外国語のようだ。

■ このように表記されていたのに訓を付けたわけだから、江戸の国文学者は偉い、と言えば偉い。

■ Aを見せられて、読めと言われれても、なかなか読めない。

■ よく読んだ。偉いことは偉い、立派だ。

■ しかし、元々は逆の話で、・・・

■ @をAの形に表記したということだから、即ち、「ことば」に、その漢字を当てたということだから、・・・

■ 「東」と書いてあるのを、「ひんがし」と読むのは当時としては、当たり前のことで、・・・

■ 普通に読めたのかもしれない。

■ しかし、どうみても「月西渡」を「月かたぶきぬ」とは読めないような気もするが、その辺は、まあ、いい。

:

■ ところで、・・・

■ 話されたことを聞いて記録し、それを読み、翻訳する。そしてまた、それを別の言葉に翻訳する。

■ そうした場合、記述される「ことば」は同一ではない。

■ だから、他の解釈や意味が入り込む余地がある。

■ 例えば、「霊」という文字から何を受け取るかということだけれど、・・・

■ 先にあげた例では、「霊」は「動力源」あるいは、それを操作する「人の意思」、あるいは「運転、操作する者」と見ることができる。

■ このような例から、全ての「霊」が「動力源」に置き換えてよいわけではないが、・・・

■ 「霊」は「霊」でない、・・・

■ 未知のモノを表現するときでも、従来の、自分が知っている言葉で表すしかない。

■ 言葉とはそういうものだという認識は必要だろう。

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